ともづな石

おてきち

2016年03月19日 12:56

長崎駅から歩いてもそれほど遠くはない、ここ玉園町には江戸時代に長崎奉行所や
各藩の御用達だったといわれる、著名人たちも多く通った料亭 【迎陽亭こうようてい
跡があるので、ちょっと寄り道がてら立ち寄ってみました。
実はこの料亭跡の真向かいには、先日ブログでも紹介致しました黄檗寺院の 聖福寺
ある通りになるんですね


残念なことに建物内の見学は出来ないみたいでしたが、開業は 1804 (文化元) 年というから
長崎随一の料亭と称されただけあって、やはり趣のある造りであることは窺えますねぇ~・・・。
戦後の廃業まで、夏目漱石、西園寺公望、渋沢栄一など多くの要人が訪れたそうですよ
そればかりか皇族方のご宿泊などにも使用されたそうですから、由緒ある料亭だったんですね!!


この石門となっているのが、かつて唐船の網をつなぎ止めていた 【ともづな石唐船維纜石
と呼ばれるモノで、そこには 【唐船維纜石】 と刻まれていました。
とうせんいらんせき」 と読むそうです
何のことだろう?と調べてみたら、維纜とはその綱のことを指すみたいですね


この石は江戸時代、ここから程近い大黒町の海岸にあったそうです。
当時、迎陽亭のご主人が骨董趣味ということを知った大黒町の若者が、一晩の宴会費用と
引き換えたモノ?だといわれている。。。と、「ナガジン」の説明の中に書いてありましたよ
まさに当時なら在り得る話だけに、オモシロイですよね


そしてその石門に刻まれた文字こそが、骨董としての価値がある訳でして
その刻まれた文字は、眼鏡橋をはじめとした中島川に架かる石橋群の名付け親であり
市中に多くの金石文を残す 【西道仙にしどうせん によるモノなんですねぇ~!!

西道仙にし-どうせん
1836-1913 幕末~明治時代の医師、教育者
天保7年生まれ。長崎で医業を開く。明治5年同地に瓊林(けいりん)学館を創設し子弟を教育
また長崎文庫を創立して、長崎の古文書を収集。のち 「長崎新聞」 「長崎自由新聞」 を発刊
大正2年7月10日死去。78歳。肥後 (熊本県) 出身。名は喜大。号は琴石。


2012年の長崎くんちの時、庭見せに合わせて 迎陽亭の庭園などが7年ぶりに一般開放
されたそうですが、敷地から日の出が見えることから 「迎陽亭」 と名付けられたそうです
庭にある築山は高さ 約3メートルで、滝と水路が残っている中央には樹齢100年程度とみられる
臥龍 (がりゅう) の梅」 が枝を広げているんですって!!
現在は個人宅だそうですから、次に一般開放されるのは。。。2019年ってことになるのかな???
オリンピックの前年かぁ~・・・忘れなかったら見学に来てみようかなぁ~


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