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Posted by 滋賀咲くブログ at

2019年10月31日

これが・・・大薩摩!?


くんち385年展というコーナーもあって、もちろん撮影OK!!
長崎の歴博は、心が広い方々ばかりなんですねぇOKkao_22icon14
撮ったらダメです!!なぁ~んてケチなことは申されぬ!!
さすが、元は長崎奉行所跡に建っているだけあって、物分りがよかねぇ~icon22kao_17楽譜
ガラス越 しではあるけれど 【長崎諏訪神社祭礼図屏風】 ~作者は不詳、江戸時代後期~
参考までに、目に留まった部分だけですが・・・撮って来ましたよカメラicon12


うへぇ~!!ホンマに細かい部分まで、根気よく丁寧に描いてありますよ・・・
屏風そのものは、諏訪神社から大波止にある 御旅所までの お下りの行列を描いてあって
薩摩踊の指物に、「寛政二」 と見えることから、寛政頃 (1789~1800年頃) の
くんちの様子である。と分かるそうですねiconN37face01フォルダiconN27
中央右よりにある、お経の細い本のような・・・墨のような形をしたモノが指物ですね!!
こういった長崎くんちを描いた屏風というのは、大変数が少ないそうですよiconN37kao_11


そしてこの3基の神輿が、左端から 「諏訪社神輿」、「住吉社神輿」、「森崎社神輿
1枚目の写真のような神輿が、当時は使われていたんですね。。。
古い造りの神輿といえば、おてきちが知っている中では坂本の山王祭で見た
日吉の神輿が、本当に神様が乗っているんじゃなかろうかiconN37kao_16iconN05
と思えるくらいに古さに磨きがかかっていて・・・息を呑んだり、溜め息をついたりしながら
必死に山王祭の写真を撮っていたのを、今でも思い出しますね(笑)


いつもはそれほど屏風に描かれている細かい部分までは、そんなにジックリと見ないけど
当時の祭りの様子と、現在の祭りの様子とではどう違ったのかな?
などなど、ちょっと見比べたりするのには面白いカモねiconN37kao_16iconN32
諏訪神社境内への参道の様子も描いてあったり。。。
下のは、町を練り歩いて御旅所へ向かう 傘鉾行列の様子ですね。
今は見ることのない、傘鉾の飾りが見られて楽しいですわiconN36face05iconN07


出口近くのコーナー展示には、古写真がありました。
各写真館からの新収蔵資料もあって、明治~大正時代のモノまで様々です!!


下の古写真は、勝山町の奉納踊 (大薩摩) と書いてありました。
大薩摩」 というのは、踊り町の演し物のことで・・・分かり易くいえば 「龍踊」 みたいな感じですかね(笑)
1926 (大正5) 年を最後に、今では見ることは出来なくなった演し物ですが。。。
これは勝山町の演し物として有名だったそうですiconN37face01iconN27
ちなみに写真は、1911 (明治44) 年、実村写真館が撮られたモノみたいですねフォルダiconN27
この演し物だったら令和の時代なら、きっと全国からインスタキラーたちが集まりそうicon12(笑)


そういえば・・・長崎では肩車のことを、ズッキャンキャンiconN04というのですが・・・
それが大薩摩の囃子の太鼓と鉦の音からきている!?とか。。。真相はコレいかに!!
最後の写真は、炉粕町 (ろかす) の奉納踊&傘鉾です。
炉粕町の傘鉾の飾りは、和同開珎なんですよiconN37kao_22iconN34icon12
おてきち、気に入ってますが・・・今はやってないので見られないんですicon23kao_18icon15
恐らく炉粕町には、日本銀行があるから通貨が飾りなんでしょうね。


だけどこうやって見ていくと、385年ですか?
江戸時代に始まった長崎くんちの記録を、写真の無かった時代は絵として祭礼図屏風に
まとめて残したワケで、その後は白黒古写真で次世代に繋いで。。。
現在はブルーレイディスクで保存!!
時代に応じた記録方法で、未来に託すワケですよねぇ・・・。
きっと多くの先人から受け継いで来た、その息吹が祭を支えているんでしょうなicon12face06icon12
   


Posted by おてきち at 13:28 Comments( 0 ) 美術館・博物館

2019年10月30日

見どころが満載

安政5年、安政6年のころに書かれた 「書屏風」 ですiconN37kao_11icon12
歴史 (年号) について、それほど覚えはイイ方ではないのですが。。。
日本史で起きた大事件といえば、江戸幕府崩壊の引き金となる、安政の大獄が安政5年
その2年後に、大老・井伊直弼が江戸城 桜田門外で暗殺されるワケですよ拳銃


おっと!!話がブレてしまいましたが(笑)
これを書いたのは、長崎では知らない人は1割、いや2割かな。。。というくらいに
名の知れた人物で 【高島 秋帆】 といって、先祖は近江国 高島郡出身の武士で
近江源氏である、佐々木氏の末裔でもある人物なんですよiconN37kao_11icon12
秋帆自身は、高島流砲術の創始者として功績を残された人物なんですけどね拳銃

書の内容は分かりませんが、ただ書かれた時代に思いを馳せると・・・
ちょうど洋学弾圧のあおりを受けて、10年間 幽閉され、赦免後に講武所砲術師範役として
返り咲いた時期に書いたモノらしく、すでに還暦を迎えていたそうですが。。。
衰えを感じさせない力いっぱいの 「」 だと、おてきちも思わず写真を撮ってしまたじょカメラ炎


そしてこちらの軸ですが。。。
もちろん3本とも作者は違って、1番右端の 「猛虎図」 を書いたのは高島 秋帆なんです。
あとの2本は名前を忘れてしまいましたが、遠目で見てもそれなりの迫力が伺えますよね!!

実はこの秋帆の墨画の虎、安政のコレラ流行の際に 「コレラ除け」 として
人々に求められた!?そうで・・・単なる虎の掛け物ではないそうなんですよiconN37kao_14炎
え~っ!?こんな猫のような漫画チックな虎icon12とらicon12が、コレラ除けに効果があるとは!?


どういうことなのか、と説明を読むと。。。
賛には、神荼と鬱塁 (しんと&うつりつ) という二神が、害をなす鬼を捕まえて
虎に喰わせるという 山海経の話が書かれているそうですフォルダiconN27
この悪鬼には、疫病が暗示され・・・秋帆の時代ではコレラが当てはまったようですねiconN36kao_21
腕のたつ砲術家の虎は可愛くとも、その 「」 の意味を持って救われた?って感じの1本ですな(笑)


「父上様!!おてきちも、あの猫虎の掛軸が欲しゅうござりまする!!」


「ふむ、いつもは無理をいわぬ、おてきちがそのような事を申すとは・・・
 余程の覚悟あってのことだな!?」


この人形たち、かなりゾクゾクとする雰囲気を持った 「楠公父子」 の人形でしたが。。。
何だろう?とキャプションを見ると、今は合併して町名は残っていませんが
長崎くんちで登場する、本下町の傘鉾の飾りとして使われていた 楠木正成と息子 (正行) との
今生の別れの場面のようですねiconN37face02icon10
だけど、この人形が傘鉾の上に乗っかっていたとは・・・想像しても怖すぎるカモ(笑)
人形師、安本 亀八による作品と伝えられているそうですフォルダiconN27

それにしても色んなモノが収蔵されていて、管理の方も大変でしょうね。
展示物の時代もほぼ横並びですが、ポイントが絞られつつも選りすぐりが顔を合わせていて
おてきち的には、見応えのある展示でしたねiconN36kao_10iconN07
明日も続きます(笑)
   


Posted by おてきち at 15:22 Comments( 2 ) 美術館・博物館

2019年10月29日

フリーメイソン発見!!

やっぱり3時のおやつは、甘いカステラにホットミルクですわiconN37kao_22コーヒーicon12
カステラもたまに食べると、美味しいですね!!
陶磁器も数は少なかったけど、まず滅多にお目に掛かれそうにない焼物が展示されていました。


ちょっと分かり辛いカモ知れませんが。。。
江戸時代後期の 【源内焼】 で 「世界地図皿」 ですicon12kao_16icon12
源内焼とは、平賀源内が志度 (現・香川県さぬき市) で、交趾焼 (こうちやき) の技法を試み
創始されたといわれる。
地図皿」 としても時期が早いもので、本作品の南北アメリカ大陸のように世界地図の図案は
数が少ないとされるフォルダiconN27

ダイヤ交趾焼とは・・・明末から清代に、中国南部の交趾地方で作られた三彩陶器のこと


こ、コレって・・・地図やったんか。。。
民藝ふうに作ったモノかとばかり思ってたけど、うぅ・・・んicon23kao_4iconN06
言われてみれば、アメリカ大陸に見えなくもないけどさ(笑)
おてきちは、てっきり中国ふうの獅子が 戯れているものかと思ってましたよiconN37kao_2icon11


こちらは、地元だけでなく 龍馬ファンなら名前くらいは知っているという 【亀山焼】
こんな感じの魚尽くしが多いように思いますが。。。
内側が亀山焼で、外側が漆仕上げといった段重は、珍しいと思いますねiconN37kao_11icon14
皆さん必ず、ここでは足を一度止めて、覗き込んでから次へと行かれてましたからicon24


そして、な、な、なんとッ!!おてきちはその場に、思わず立ち尽くしてしまいましたよ!!
そのタイトルは 【フリーメイソン 紋章螺鈿箱】 と書いてありました。
暫く鳴りを潜めていた?あの秘密結社に関するモノが、なぜ長崎に!?
ということは・・・江戸時代に日本にもフリーメイソンが存在していたiconN37kao_12iconN05


長崎青貝細工で作られた、恐らくオーダーメイドの品でしょうね。。。
プロビデンスの目や、定規やコンパスの紋章など特徴的なシンボル部分には
細かい陰影が施されており、注文の際に渡された原画を元に制作したものとみられるフォルダiconN27


日本の職人は、オランダ人の持ち込んだ図を下絵に制作していて。。。
その深い意味は、多分分かっていなかった・・・と解説が添えてありましたよ(笑)
しかし怪しげな光を放つ青貝螺鈿と、フリーメイソングッズとの相性が良すぎて逆に怖いicon23kao_3


本当にイチ推しが目白押しですわ(笑)
またこちらも青貝細工の蒔絵螺鈿モノですが・・・
いったいどういう人物が、どんな場所で使っていたんでしょうねiconN37face02icon10
もっと近づいて撮りたかったのですが、ガラスがどうにも反射して思うように撮れなかったので
全体図の雰囲気だけで ご勘弁を!!


キャプションによると、ヨーロッパからの注文によって制作された飾棚のようですね。
棚板が跳ね上がって、別の形態に変化する仕掛けが隠されていたり。。。
背板には朱漆に高蒔絵で花鳥が表現されていたりと、贅の限りが尽くされた
非常に高い完成度の飾棚のようですよiconN37kao_16iconN32


普段は棚の裏側っていうのは、壁に固定されていて見る機会がないのですが。。。
実際この飾棚は、部屋の中央に間仕切りのような形で使用されていたのでしょうかね!?
ものすごくゴージャスな 「押絵」 が施されていましたよiconN36kao_22iconN07
押絵って羽子板とかでしか見たことがないです(笑)

なんか女性の着物の裾あたりに黒い・・・イノシシのような獣ふうの毛並みをした物体が
いたので、なにかな?と思い説明を読むと・・・これは愛玩犬の狆 (ちん) だそうですいぬiconN04
時代を経て、こんな姿になってしまったのか。。。
それともこれが当時でいうところの狆だったのか。。。サッパリおてきちには分からんちんicon22kao_17iconN33


   


Posted by おてきち at 14:08 Comments( 0 ) 美術館・博物館

2019年10月28日

箱モノ好き


例えガラスケースに入っていようとも、イイものはイイですよねぇ~icon12face05icon12
しかもこういう展示だと、360度というのか・・・
全面がよく見えるので、モノによっては理想的ですよねiconN36kao_22icon14


ただ写真を撮るのが、すこぶる難しくって。。。
ガラスに反射して自分が写り込んでしまうので、余程、注意して撮らないと
帰ってから写真を見てガックリicon23kao_12icon15


なぁ~んてことも多々あるワケですよ(笑)
今日は文章というよりも、写真で楽しんで頂ければと思いますiconN37kao_21iconN07
ところで・・・この鳥かご?のようなモノは、いったい何でしょうかねぇ~!?


展示ケースの名札を見ると 【ガラス絵重箱】 と書いてありましたフォルダiconN27
よく読むと・・・紗に金糸で刺繍をほどこした外箱が付属する!?
なぁ~んだ!!鳥かごではなく、重箱の外箱だったのかぁ~icon23kao_22icon10


板ガラスの裏側から彩色をするガラス絵を、桑製の枠にはめて重箱にしてあるそうですフォルダiconN27
各面には様々な文様が描き込まれ、その筆使いは裏側からの絵付けとは思えないほど
繊細で・・・また更紗ふうの縁取りからは、異国情緒が感じられるイッピンですよねぇ。。。


あまりにも色々と気になるモノが多すぎたものだから。。。
気持ちが焦ってしまって、キャプションを撮り忘れたモノも多かったです(笑)
子供の頃から、あまりキラキラしたモノは好みではなく、どちらかと言えば泥がついているような


原石っぽいモノの方が好きで、それを自分で磨いたり、庭に埋めてみたりしていたのを
最近になって思い出したりして・・・どうして庭なんかに埋めていたんだろうか???
前世は犬だったのか!?などなど、相変わらずの自己分析は健在ですがicon22kao_17楽譜


博物館内には、この日は結構、来館者は多かった方だと思うのですが。。。
写真を必死に撮っていたのは、なぜか?おてきちだけでしたよicon23kao_2icon11
この時とばかりに、反射するガラスケースと格闘しながら撮ったワケですが。。。


この年になって、こういうキラキラというのか・・・
見る角度によって、まるで別人のような表情を見せる長崎螺鈿の魅力に
実は少しハマってしまっている、キラキラに目覚めた おてきちでやんすiconN36kao_10icon12icon12icon12


   


Posted by おてきち at 21:22 Comments( 4 ) 美術館・博物館

2019年10月27日

必殺!仕事人で見たことが

あるような・・・銀貨が山盛りテンコ盛りですぅ~~~icon12face05icon12
積み木崩 しならぬ、銀山崩 しだわ(笑)
戦時下に県下で回収された、古貨幣や外国硬貨なども展示されていました。
十八銀行が寄贈されたモノみたいですが。。。


第二次世界大戦中、日本政府は軍事目的で金属回収運動を展開 していました。
古貨幣や硬貨類についても、窓口に指定された銀行が一般市民から日本紙幣と
交換で回収 していましたフォルダiconN27

長崎居留地などで流通した、国内外の銀貨などが集まった点は独特で。。。
海外との交流が歴史的に盛んであった、長崎県の特徴があらわれているそうですよiconN37kao_11
このように2種類の一分銀が展示されていましたが。。。


天保一分銀」 と 「安政一分銀
その見分け方についても記されていました。
側面が滑らかな方が、天保一分銀で・・・安政一分銀の方は側面が粗いヤスリ面に
なっているそうですiconN37kao_16iconN32
なかなか手にする機会はないけれど、見分け方の参考にはなりましたね(笑)


その他には、まるで記念メダルか!?
と思うような、デザイン性の高い 「メキシコ8レアル銀貨」 というのもあって。。。
もちろん初めて見ましたが、説明には1858 (安政5) 年の欧米との 修好通商条約締結後
日本に流入してきた外国銀貨 (洋銀) の中でも、中心的な存在だったのがメキシコ銀貨で
メキシコの漢字表記 (墨西哥) から、「墨銀」 とも記されるそうですフォルダiconN27


アメリカの1ドル銀貨としても通用し、「メキシコドル」 とも呼ばれ東アジアを中心に
国際通貨としての役割を果たしていたそうですiconN37kao_16icon11
ただ開港後に、金貨が国外に流出したカラクリも書いてあったのですが。。。


天保一分銀4枚で、一両小判1枚に相当していたそうですが。。。
大量発行され、開港時にも広く流通していましたフォルダiconN27

開港当時の日本の金銀比価が約 1:5、外国では1:15 だったことで
外国人商人は4枚の洋銀を、日本で小判に交換し 海外に持ち出せば
洋銀が12枚得られて、ボロ儲けができた!!

上の写真は、それこそ分かりやすく描かれた カラクリ図もありましたけど・・・
うぅ~ん、数字に疎い おてきちは・・・今ひとつまだ理解できてない(笑)
こんなんじゃ~、いつまでたっても立派な近江商人にはなれませんぜicon23kao_18icon15

矢上くんちの写真ですカメラicon12
これで一度yubi_2kao_21試してみて下さいませ。
http://www1.cncm.ne.jp/~duke
   


Posted by おてきち at 10:43 Comments( 5 ) 美術館・博物館