さらに長崎港方面を目指して歩いて行くと、旧長崎警察署から100mあるかなぁ・・・。
路面電車も通る大通りの交差点の一角に、長崎創業の文明堂総本店があります。
黒壁の建物を見ていると、やはり長浜の黒壁ガラス館を思い出しますねぇ~!!

最近、文明堂のパッケージが33年ぶりに オシャレに生まれ変わって、以前よりも格調高くなった
感じが致しますが、やはりパッケージのイメージって大切ですよね


南蛮渡来のレトロな街をイメージされた、長崎らしいモチーフが地模様にあしらってあるのですが。。。
皇室御用達って雰囲気もあって、思わず買いそうになります(笑)
古き良き時代のモノに若返った?ようで、これからは売り上げもきっと うなぎ上り?だと思いますネ!!

そしてコチラの建物は、さてここで問題です!!
いったい何屋さんでしょうか



ヒントは食品関係ですが、長崎でも数軒しかない貴重な食材を扱っておられるお店ですね。
ちょうど長崎くんちの頃に撮った写真だったので、幕が掛けてありますが普段はありません

たまにはクイズもよかろう


路面電車も通る大通りの交差点の一角に、長崎創業の文明堂総本店があります。
黒壁の建物を見ていると、やはり長浜の黒壁ガラス館を思い出しますねぇ~!!
最近、文明堂のパッケージが33年ぶりに オシャレに生まれ変わって、以前よりも格調高くなった
感じが致しますが、やはりパッケージのイメージって大切ですよね



南蛮渡来のレトロな街をイメージされた、長崎らしいモチーフが地模様にあしらってあるのですが。。。
皇室御用達って雰囲気もあって、思わず買いそうになります(笑)
古き良き時代のモノに若返った?ようで、これからは売り上げもきっと うなぎ上り?だと思いますネ!!
そしてコチラの建物は、さてここで問題です!!
いったい何屋さんでしょうか




ヒントは食品関係ですが、長崎でも数軒しかない貴重な食材を扱っておられるお店ですね。
ちょうど長崎くんちの頃に撮った写真だったので、幕が掛けてありますが普段はありません


たまにはクイズもよかろう



今年の2月に郷土より知人たちが、長崎の地へ初上陸した時にこの県庁坂も歩いたのですが
その時、この古文字が珍しい!!といって記念撮影をする姿を横目で見ながら。。。
確かにこれは貴重だよな・・・と後で思い直して、改めて撮りに来た1枚なんです(笑)
ホント 孫に教えられた!?って気分ですね



今度は大波止 (長崎港) の方面へと、なだらかな坂道を下って行きます!!
でも坂道って写真に撮ると面白いですよね・・・。
この風景は上りなのか、下りなのか、錯覚を起こしているようで撮った本人も愉快で仕方ないです


ちなみにこれは県庁を下った辺りで立ち止まり、振り返って右側に県庁を見ているという図ですね。

県庁を下ってすぐの所に レトロな建物が見えて来ましたよぉ~
これは 【旧長崎警察署】 のようですが、現在は長崎県庁第3別館として使用されているようです。
建物自体は大正時代に築造されたものみたいですね・・・。
調べてみると、これは被爆遺構のひとつらしいですよ



隣接していた当時の県庁舎は原爆で焼失したそうですが、この旧長崎警察署は延焼することなく
残ったということですね・・・。
県庁の別館と入口には看板が掲げてありましたが、やはり内装も気になるので。。。
ここは息を殺して?静かに潜入することに致しましょうかね



わおぉ。。。これってどこかで似たような空気を放つ建物に入った記憶がありますが。。。
そうか!!今は無き滋賀会館ですよ!!そっかぁ~それで初めて入った感じがしなかったのか・・・。
懐かしい壁面に天井の高さ、それに床材、手すりに窓ガラスの間隔。
ヴォーリズとまではいきませんが、それに少し近い感覚はありますね



階段も上ってもっと見学したかったけど、それはさすがに厄介な事になっては家に帰れなくなるので
まだ 「家なき子」 ~空と君とのあいだに~ は、今のおてきちには厳しすぎます


ということで、こちらをどうぞ


https://www.youtube.com/watch?v=J0tpq6t4xe8

その時、この古文字が珍しい!!といって記念撮影をする姿を横目で見ながら。。。
確かにこれは貴重だよな・・・と後で思い直して、改めて撮りに来た1枚なんです(笑)
ホント 孫に教えられた!?って気分ですね



今度は大波止 (長崎港) の方面へと、なだらかな坂道を下って行きます!!
でも坂道って写真に撮ると面白いですよね・・・。
この風景は上りなのか、下りなのか、錯覚を起こしているようで撮った本人も愉快で仕方ないです



ちなみにこれは県庁を下った辺りで立ち止まり、振り返って右側に県庁を見ているという図ですね。
県庁を下ってすぐの所に レトロな建物が見えて来ましたよぉ~

これは 【旧長崎警察署】 のようですが、現在は長崎県庁第3別館として使用されているようです。
建物自体は大正時代に築造されたものみたいですね・・・。
調べてみると、これは被爆遺構のひとつらしいですよ



隣接していた当時の県庁舎は原爆で焼失したそうですが、この旧長崎警察署は延焼することなく
残ったということですね・・・。
県庁の別館と入口には看板が掲げてありましたが、やはり内装も気になるので。。。
ここは息を殺して?静かに潜入することに致しましょうかね



わおぉ。。。これってどこかで似たような空気を放つ建物に入った記憶がありますが。。。
そうか!!今は無き滋賀会館ですよ!!そっかぁ~それで初めて入った感じがしなかったのか・・・。
懐かしい壁面に天井の高さ、それに床材、手すりに窓ガラスの間隔。
ヴォーリズとまではいきませんが、それに少し近い感覚はありますね



階段も上ってもっと見学したかったけど、それはさすがに厄介な事になっては家に帰れなくなるので
まだ 「家なき子」 ~空と君とのあいだに~ は、今のおてきちには厳しすぎます



ということで、こちらをどうぞ



https://www.youtube.com/watch?v=J0tpq6t4xe8
出島の真正面にある 江戸町には、現在 長崎県庁が出島を見下ろす形で建っています。
1571 (元亀2) 年、長崎の港に初めてポルトガル船が入港し、長崎に新しい町が造られました。
その時、ポルトガル人や日本人の信仰の中心として 、岬の突端であった江戸町のこの場所に
【岬の教会】 と呼ばれる サンパウロの教会 が建っていたそうです。

その後、1633 (寛永10) 年に長崎奉行所が 東役所と西役所の2つに分かれて
江戸町には 【奉行所・西役所】 が建っていたそうです。
長崎海軍伝習所絵図には、このように右上には出島の存在が確認できますよね

そして石垣が積まれた立派な建物が、西役所だったということになりますね・・・。

県庁正面の入り口付近には 【海軍伝習所跡】 という石碑も立っていました。
1855 (安政2) 年、西役所内に海軍伝習所が設けられたそうで、その海軍伝習所の1期生には
勝海舟 が、2期生には 榎本武揚 などがいたそうですよ


ここから幕末から明治にかけて、活躍をした藩士たちが輩出?された訳ですね!!

この場所がいかに当時から要所だったということは、よく分かりましたが。。。
現在この場所は 「県庁坂」 と呼ばれていて、精霊流しだったり長崎くんちの神輿が駆け上る場所として
1番の見所となっている場所なのですが、この県庁の建物もそろそろ老朽化が問題視されていて
駅裏の埋立地への移転が決まっているんですよねぇ~・・・。

取り壊される前に、いずれは古写真になるであろう県庁風景を記念に撮っておこうっと


県庁内にある食堂にも以前、一度だけですが食べに入ったことがあるので。。。
それが結構おいしかったので、機会があれば もう一度くらい食べに行ってもいいかなぁ~


遠目からでしたが、目を凝らしてよぉ~く見ると 何やら左側に黒いポストのような箱モノが。。。

やっぱり・・・黒ポストでしたよ!!そこにはこのような説明が記されていました
【長崎街道と新式郵便制度】
長崎街道は、江戸時代において小倉・長崎間で25の宿場を結び、国内で唯一、海外への窓口を
開く文明ロードとして発展しました。
この街道に呼応するように、明治4年12月5日、九州で最初に長崎郵便役所と16の郵便取扱所が
街道に設置され、その後順次、九州全域に郵便局ネットワークが広がって行きました。
物流と情報の伝達手段として役割を果たしてきた長崎街道を振り返り、歴史文化を生かした地域の
活性化が更に推進されるよう願って、このポストを設置したものです。

なるほどねぇ・・・25ある宿場の街道沿いに16のポストかぁ・・・。
そういえば大村宿の本陣跡近くにも、これと似たような 黒ポストがあったような・・・。
明治の開設当時は、木製の黒ポストだったみたいですよ


町を歩いていると昔ながらの丸ポストを、時々見かけることがありますが。。。
あれって結構、古いというか、もしかすると骨董品の部類に入りますよね(笑)

実は県庁だけでなく、市役所も老朽化していて 移転地問題でゴタついている部分もあるみたいですが
官庁街として成り立っている商店街の人たち (お弁当屋さんなど) は、多くの常連客を逃がすと
かなりの痛手になるために、横断幕?などで反対運動を訴えておられるようですね。
でも江戸町っていう町名がステキですよね!!
長崎の町名はどれも金運が詰まっていそうな名前が多いから、おてきち大好きな町なんです




1571 (元亀2) 年、長崎の港に初めてポルトガル船が入港し、長崎に新しい町が造られました。
その時、ポルトガル人や日本人の信仰の中心として 、岬の突端であった江戸町のこの場所に
【岬の教会】 と呼ばれる サンパウロの教会 が建っていたそうです。
その後、1633 (寛永10) 年に長崎奉行所が 東役所と西役所の2つに分かれて
江戸町には 【奉行所・西役所】 が建っていたそうです。
長崎海軍伝習所絵図には、このように右上には出島の存在が確認できますよね


そして石垣が積まれた立派な建物が、西役所だったということになりますね・・・。
県庁正面の入り口付近には 【海軍伝習所跡】 という石碑も立っていました。
1855 (安政2) 年、西役所内に海軍伝習所が設けられたそうで、その海軍伝習所の1期生には
勝海舟 が、2期生には 榎本武揚 などがいたそうですよ



ここから幕末から明治にかけて、活躍をした藩士たちが輩出?された訳ですね!!
この場所がいかに当時から要所だったということは、よく分かりましたが。。。
現在この場所は 「県庁坂」 と呼ばれていて、精霊流しだったり長崎くんちの神輿が駆け上る場所として
1番の見所となっている場所なのですが、この県庁の建物もそろそろ老朽化が問題視されていて
駅裏の埋立地への移転が決まっているんですよねぇ~・・・。
取り壊される前に、いずれは古写真になるであろう県庁風景を記念に撮っておこうっと



県庁内にある食堂にも以前、一度だけですが食べに入ったことがあるので。。。
それが結構おいしかったので、機会があれば もう一度くらい食べに行ってもいいかなぁ~



遠目からでしたが、目を凝らしてよぉ~く見ると 何やら左側に黒いポストのような箱モノが。。。
やっぱり・・・黒ポストでしたよ!!そこにはこのような説明が記されていました

【長崎街道と新式郵便制度】
長崎街道は、江戸時代において小倉・長崎間で25の宿場を結び、国内で唯一、海外への窓口を
開く文明ロードとして発展しました。
この街道に呼応するように、明治4年12月5日、九州で最初に長崎郵便役所と16の郵便取扱所が
街道に設置され、その後順次、九州全域に郵便局ネットワークが広がって行きました。
物流と情報の伝達手段として役割を果たしてきた長崎街道を振り返り、歴史文化を生かした地域の
活性化が更に推進されるよう願って、このポストを設置したものです。
なるほどねぇ・・・25ある宿場の街道沿いに16のポストかぁ・・・。
そういえば大村宿の本陣跡近くにも、これと似たような 黒ポストがあったような・・・。
明治の開設当時は、木製の黒ポストだったみたいですよ



町を歩いていると昔ながらの丸ポストを、時々見かけることがありますが。。。
あれって結構、古いというか、もしかすると骨董品の部類に入りますよね(笑)
実は県庁だけでなく、市役所も老朽化していて 移転地問題でゴタついている部分もあるみたいですが
官庁街として成り立っている商店街の人たち (お弁当屋さんなど) は、多くの常連客を逃がすと
かなりの痛手になるために、横断幕?などで反対運動を訴えておられるようですね。
でも江戸町っていう町名がステキですよね!!
長崎の町名はどれも金運が詰まっていそうな名前が多いから、おてきち大好きな町なんです




出島復元完成記念として、ヨリスグリの出島所蔵名品展が 【十六番蔵】 と 【筆者蘭人部屋】 の
2階の特別展示室にて開催されていたので、そのヨリスグリを じっくり見物しようと楽しみに
やって来た訳ですよぉ~


何が出るかな
何が出るかな
はてはてふむぅ~ん


まずは定番中の定番!!芙蓉手から見て行くことに・・・。
左 【染付芙蓉手 牡丹鳳凰文大皿】 17C後半~18C初期
見込みには牡丹と鳳凰が描かれていて、周縁には宝尽くしや花文が描かれた芙蓉手様式の大皿
その当時、ヨーロッパで流行した中国・景徳鎮窯の芙蓉手を有田で模倣して製作したもののひとつ。
大皿として使用したり、キャビネットの上などに飾ったり、壁の装飾として用いられることも多かった
ようで、お皿の裏側には壁に引っ掛けるため用の金具がつけてありましたよ


右 【染付芙蓉手 花鳥文VOCマーク入り皿】 17C後半~18C初期
見込みには花鳥文が描かれ、中央部分にはオランダ東インド会社の社章であるVOC の
組み合わせ文字が描かれています。
世界各地のオランダ商館で使用するために有田窯で製作された、出島を象徴する染付磁器ですネ!!

今年は有田焼創業400年という。。。記念すべき年なので、そのような年に肥前有田の磁器を
しかも名品の数々を、こうして近くで見られるということが今でも信じられないくらいですが。。。
引き続き見て行くことに致しましょうかね


右 【色絵菊牡丹文 蓋付壷】 17C後半
ヨーロッパ輸出向けに製作された染錦手の大壷で、この器形は沈香壷と呼ばれヨーロッパでは
装飾品として王侯貴族や富裕層の邸宅の暖炉などに飾られていた壷のようです


色絵の状態もすこぶる良く、華麗な壷でしたネ!!

左 【色絵牡丹文 欧字入手付瓶】 1700~1730年代
手付の調味料入れのようです。
正面中央に描かれた 「A」 は、オランダ語で酢 (Azijn) を意味するそうですよ


この他に油を意味する Oil (オイル・O)、レモン汁を表す Lemon (レモン・L)
ソースを表す Sause (ソース・S) の例があるみたいですよ!!オシャレですよねぇ~


これらもヨーロッパ輸出向けに有田で製作されたモノなんですって・・・。

蔵を入ってすぐの所には 【赤絵金彩鶉草花文 大壷一対】 が出迎えてくれたんですよ


やはりこちらも沈香壷で、蓋のツマミ部分 (装飾として) には和装人形がつけれていました。
出島を通じて輸出され、里帰りしたヨーロッパ向けの伊万里 (有田) 磁器の代表作ですね!!
伊万里磁器は、オランダ東インド会社の交易が活発な時期の品目のひとつ。。。
同様式の破片が出島からも出土していることから、出島が輸出の窓口であったことを
証明している。。。と書かれていました


とにかく細々したモノまで撮っていると大変なので、大まかな目立つモノだけを紹介していますが
今回は撮影がOKだったので、本当にラッキーでしたね


ガラスものは少なかったのですが、特にこちらの 【カットガラス蓋付壷】 1860年代は目立っていました。
オランダ製で、ヨーロッパでは蜜漬などの保存容器として用いられたガラス製の飾り瓶のようですね。
器面全体に斜格子文様のカットが施されていて、高台の底部分は星型?花型を思わせるような装飾で
このようなカットガラスは、18C後期頃 特にイギリスやアイルランドで盛行したそうですよ

この種の蓋付壷は日本では杯洗、あるいは菓子器として伝来している例があるそうです


あとはオランダ製の 【銀貨・銅貨】 ですかねぇ~・・・。
上列の右から2番目のコイン、VOC の文字が見えますかねぇ?
硬貨には主に製作した各州の紋章と、VOC の組み合わせ文字が刻印されているみたいです。
日本から輸出された銀や銅蔵にあった銅も、この貨幣鋳造に用いられていたそうですよ


そういうと市内には、銀屋町だの銅座町、金屋町といった金銀銅がつく町名が残ってますけど
やはりそれらの流通が多かった?からなのでしょうかね・・・。

出島に行った日は、韓国の船が入港していたらしく海軍関係の若人 (学生) たちが出島見物に
来ていたので、異人さんといってもアジア系ではありましたが 出島をぶらぶらしている光景を
眺めていると、それだけで異国情緒が出島に漂っていて気分が盛り上がるってもんですね(笑)

ここが出島の表門になるのですが、ここに2017年 表門橋が完成する予定なんですよねぇ~。
出島の復元に着手され始めたのは、1951 (昭和26) 年からみたいだから。。。
再び海に浮かぶ出島が完成するまで、事業開始から100年を見越されているようなので
目標は2050年なんだそうですよ!!
今2016年だから。。。あと34年後かぁ。。。生きてるかなぁ。。。

ここでお知らせです


11月5日(土)夜9 時から放送の 【世界ふしぎ発見!】
今回のテーマは長崎の出島で 「出島に秘められた400年の物語」 が紐解かれるようですよ


興味のある方はコチラをどうぞ

http://www.tbs.co.jp/f-hakken/next/p_1.html

2階の特別展示室にて開催されていたので、そのヨリスグリを じっくり見物しようと楽しみに
やって来た訳ですよぉ~



何が出るかな




まずは定番中の定番!!芙蓉手から見て行くことに・・・。
左 【染付芙蓉手 牡丹鳳凰文大皿】 17C後半~18C初期
見込みには牡丹と鳳凰が描かれていて、周縁には宝尽くしや花文が描かれた芙蓉手様式の大皿
その当時、ヨーロッパで流行した中国・景徳鎮窯の芙蓉手を有田で模倣して製作したもののひとつ。
大皿として使用したり、キャビネットの上などに飾ったり、壁の装飾として用いられることも多かった
ようで、お皿の裏側には壁に引っ掛けるため用の金具がつけてありましたよ



右 【染付芙蓉手 花鳥文VOCマーク入り皿】 17C後半~18C初期
見込みには花鳥文が描かれ、中央部分にはオランダ東インド会社の社章であるVOC の
組み合わせ文字が描かれています。
世界各地のオランダ商館で使用するために有田窯で製作された、出島を象徴する染付磁器ですネ!!
今年は有田焼創業400年という。。。記念すべき年なので、そのような年に肥前有田の磁器を
しかも名品の数々を、こうして近くで見られるということが今でも信じられないくらいですが。。。
引き続き見て行くことに致しましょうかね



右 【色絵菊牡丹文 蓋付壷】 17C後半
ヨーロッパ輸出向けに製作された染錦手の大壷で、この器形は沈香壷と呼ばれヨーロッパでは
装飾品として王侯貴族や富裕層の邸宅の暖炉などに飾られていた壷のようです



色絵の状態もすこぶる良く、華麗な壷でしたネ!!
左 【色絵牡丹文 欧字入手付瓶】 1700~1730年代
手付の調味料入れのようです。
正面中央に描かれた 「A」 は、オランダ語で酢 (Azijn) を意味するそうですよ



この他に油を意味する Oil (オイル・O)、レモン汁を表す Lemon (レモン・L)
ソースを表す Sause (ソース・S) の例があるみたいですよ!!オシャレですよねぇ~



これらもヨーロッパ輸出向けに有田で製作されたモノなんですって・・・。
蔵を入ってすぐの所には 【赤絵金彩鶉草花文 大壷一対】 が出迎えてくれたんですよ



やはりこちらも沈香壷で、蓋のツマミ部分 (装飾として) には和装人形がつけれていました。
出島を通じて輸出され、里帰りしたヨーロッパ向けの伊万里 (有田) 磁器の代表作ですね!!
伊万里磁器は、オランダ東インド会社の交易が活発な時期の品目のひとつ。。。
同様式の破片が出島からも出土していることから、出島が輸出の窓口であったことを
証明している。。。と書かれていました


とにかく細々したモノまで撮っていると大変なので、大まかな目立つモノだけを紹介していますが
今回は撮影がOKだったので、本当にラッキーでしたね



ガラスものは少なかったのですが、特にこちらの 【カットガラス蓋付壷】 1860年代は目立っていました。
オランダ製で、ヨーロッパでは蜜漬などの保存容器として用いられたガラス製の飾り瓶のようですね。
器面全体に斜格子文様のカットが施されていて、高台の底部分は星型?花型を思わせるような装飾で
このようなカットガラスは、18C後期頃 特にイギリスやアイルランドで盛行したそうですよ


この種の蓋付壷は日本では杯洗、あるいは菓子器として伝来している例があるそうです


あとはオランダ製の 【銀貨・銅貨】 ですかねぇ~・・・。
上列の右から2番目のコイン、VOC の文字が見えますかねぇ?
硬貨には主に製作した各州の紋章と、VOC の組み合わせ文字が刻印されているみたいです。
日本から輸出された銀や銅蔵にあった銅も、この貨幣鋳造に用いられていたそうですよ



そういうと市内には、銀屋町だの銅座町、金屋町といった金銀銅がつく町名が残ってますけど
やはりそれらの流通が多かった?からなのでしょうかね・・・。
出島に行った日は、韓国の船が入港していたらしく海軍関係の若人 (学生) たちが出島見物に
来ていたので、異人さんといってもアジア系ではありましたが 出島をぶらぶらしている光景を
眺めていると、それだけで異国情緒が出島に漂っていて気分が盛り上がるってもんですね(笑)
ここが出島の表門になるのですが、ここに2017年 表門橋が完成する予定なんですよねぇ~。
出島の復元に着手され始めたのは、1951 (昭和26) 年からみたいだから。。。
再び海に浮かぶ出島が完成するまで、事業開始から100年を見越されているようなので
目標は2050年なんだそうですよ!!
今2016年だから。。。あと34年後かぁ。。。生きてるかなぁ。。。
ここでお知らせです



11月5日(土)夜9 時から放送の 【世界ふしぎ発見!】
今回のテーマは長崎の出島で 「出島に秘められた400年の物語」 が紐解かれるようですよ



興味のある方はコチラをどうぞ


http://www.tbs.co.jp/f-hakken/next/p_1.html
昨年の6月頃、出島の第三期復元事業である6棟の上棟式に参加した時の復元建物が
ようやく完成し、先日20日より 一般公開されるようになったので。。。
早速どんな感じに仕上がっているのかと 楽しみに行って参りました



今回の6棟は、出島の中央部分に位置していた建物が中心となっていて。。。
表門から出島への出入りを監視する役人がいた 【乙名詰所】 や、オランダ人が暮らした 【筆者蘭人部屋】
砂糖蔵だった 【十四番蔵】 に、丁子 (クローブ) 蔵だった 【十六番蔵】 それから 【組頭部屋】
そして出島の主要な輸出品であった銅を保管していた 【銅蔵】 などが復元されました


これで出島にある建物は全部で16棟になった・・・のかな?
(復元されたのは写真左側の6棟になります)

まずは 「銅蔵」 から覗いてみましょうかねぇ~!!
昔ながらの建築方法で復元されているようでしたが、全ての木材がピカピカで新築感に違和感を感じますが
そのうち多くの観光客によって、歴史の色 (手垢など含めて) に塗り替えられて行くことでしょう


ちなみにこの棹銅入箱の重さは約60kgあるそうですよ・・・。
危険ですので持ち上げないで下さい、と書いてありました



発掘された 「棹銅」 もあって、銅蔵の出入り口部分と 組頭部屋の中央部分に広がって
出土したらしく、他にも鉄製の釘なども大量に出土しているそうです。
出土状態からして、組頭部屋で銅を計量したり、梱包作業などが行われていたと考えられるみたいですね。
ちなみに棹銅の寸法は7寸5分程 (約23cm) で、重さは半斤 (300g) と決められていたそうですよ

それで棹銅 60kg入りの箱で輸出値の金額はいかほど?だったのでしょうね

気になります(笑)

次に入ったのは 「十四番蔵」 でしたが。。。
ここには蔵の下の発掘遺構や、出島と長崎の町をつなぐ橋などが展示されていました。
そしてこの柱は江戸時代に架かっていた、出島橋の親柱の一部と伝えられているそうですが。。。
何でも工事中に発見されたらしく、左の柱には 「出島橋」 と彫られているのがまだ残っていますよ!!

でも。。。どうして 「出」 の文字が無いのでしょうか!?
それは、説明によると一部をくり貫いて灯籠として転用されていた痕跡?のようですよ・・・。
ダイナミックというのか、当時はそれほど重要なモノという認識はなく。。。
あるモノは利用せよ!!的な、リサイクルする方が賢明だったのでしょうね



平成26年~27年にかけて、出島の対岸にある江戸町の発掘調査を行われていた中で
約9万2千点にのぼる膨大な出土品があったんだそうです!!
そして最も多く見付かったのは。。。近世の陶磁器だったそうですが、その他にも木製品や
珍しい遺物も出土していたという、それらの一部が展示されていました



展示されている出土品は、1678 (延宝6) 年に木橋から石橋に架け替えられた時に
拡幅された橋詰の中にまとめて捨てられたものだそうです。
遺物の製作年代が 1678年以前に限られているため、これらの出土品からも橋詰の拡幅時期が
裏付けられた、とキャプションには記されていました

~江戸町橋梁架設地点・出土遺物~

肥前磁器や中国・景徳鎮磁器がある中に、ありゃ?このマーク、どこかで見たような。。。
と思ったら、第1回目のブラタモリが長崎だったのですが、出島にも立ち寄り その時にタモさん自身が
江戸町橋梁架設地点で、初の発掘体験をされた時に出土した 「肥前磁器」 もちゃっかり遺物仲間として
展示されていたのには思わず大声で、ブラタモリがあるぅ~!!ってな具合で テンションマックスでした(笑)
でも栗の文様でしょうかね?なかなか味わい深い器であることに違いありませんな


明日も出島は続きまする



ようやく完成し、先日20日より 一般公開されるようになったので。。。
早速どんな感じに仕上がっているのかと 楽しみに行って参りました



今回の6棟は、出島の中央部分に位置していた建物が中心となっていて。。。
表門から出島への出入りを監視する役人がいた 【乙名詰所】 や、オランダ人が暮らした 【筆者蘭人部屋】
砂糖蔵だった 【十四番蔵】 に、丁子 (クローブ) 蔵だった 【十六番蔵】 それから 【組頭部屋】
そして出島の主要な輸出品であった銅を保管していた 【銅蔵】 などが復元されました



これで出島にある建物は全部で16棟になった・・・のかな?
(復元されたのは写真左側の6棟になります)
まずは 「銅蔵」 から覗いてみましょうかねぇ~!!
昔ながらの建築方法で復元されているようでしたが、全ての木材がピカピカで新築感に違和感を感じますが
そのうち多くの観光客によって、歴史の色 (手垢など含めて) に塗り替えられて行くことでしょう



ちなみにこの棹銅入箱の重さは約60kgあるそうですよ・・・。
危険ですので持ち上げないで下さい、と書いてありました



発掘された 「棹銅」 もあって、銅蔵の出入り口部分と 組頭部屋の中央部分に広がって
出土したらしく、他にも鉄製の釘なども大量に出土しているそうです。
出土状態からして、組頭部屋で銅を計量したり、梱包作業などが行われていたと考えられるみたいですね。
ちなみに棹銅の寸法は7寸5分程 (約23cm) で、重さは半斤 (300g) と決められていたそうですよ


それで棹銅 60kg入りの箱で輸出値の金額はいかほど?だったのでしょうね



次に入ったのは 「十四番蔵」 でしたが。。。
ここには蔵の下の発掘遺構や、出島と長崎の町をつなぐ橋などが展示されていました。
そしてこの柱は江戸時代に架かっていた、出島橋の親柱の一部と伝えられているそうですが。。。
何でも工事中に発見されたらしく、左の柱には 「出島橋」 と彫られているのがまだ残っていますよ!!
でも。。。どうして 「出」 の文字が無いのでしょうか!?
それは、説明によると一部をくり貫いて灯籠として転用されていた痕跡?のようですよ・・・。
ダイナミックというのか、当時はそれほど重要なモノという認識はなく。。。
あるモノは利用せよ!!的な、リサイクルする方が賢明だったのでしょうね



平成26年~27年にかけて、出島の対岸にある江戸町の発掘調査を行われていた中で
約9万2千点にのぼる膨大な出土品があったんだそうです!!
そして最も多く見付かったのは。。。近世の陶磁器だったそうですが、その他にも木製品や
珍しい遺物も出土していたという、それらの一部が展示されていました



展示されている出土品は、1678 (延宝6) 年に木橋から石橋に架け替えられた時に
拡幅された橋詰の中にまとめて捨てられたものだそうです。
遺物の製作年代が 1678年以前に限られているため、これらの出土品からも橋詰の拡幅時期が
裏付けられた、とキャプションには記されていました


~江戸町橋梁架設地点・出土遺物~
肥前磁器や中国・景徳鎮磁器がある中に、ありゃ?このマーク、どこかで見たような。。。
と思ったら、第1回目のブラタモリが長崎だったのですが、出島にも立ち寄り その時にタモさん自身が
江戸町橋梁架設地点で、初の発掘体験をされた時に出土した 「肥前磁器」 もちゃっかり遺物仲間として
展示されていたのには思わず大声で、ブラタモリがあるぅ~!!ってな具合で テンションマックスでした(笑)
でも栗の文様でしょうかね?なかなか味わい深い器であることに違いありませんな



明日も出島は続きまする


