息を吸うではなく、息を呑むような、美しい風景でしょ・・・
これは無料で配布されている、観光案内の「諫早旅時間」というパンフですが
長崎市にある中島川に架かる、あの有名な眼鏡橋よりもデッカイ石橋で
最初見た時は、あまりのデカさに驚きましたね



この石橋が昨日の本明川に実際、架けられていた橋で、諫早大水害後にこの諫早公園内へと
移設されたそうです

日本最大級の二連アーチ橋で、石橋では日本で最初に国の重要文化財に指定されたという
石橋建築を目指す方々にとって、ここはある意味、聖地カモね!!

本明川の2つ目の飛び石を渡り、地上へ上がって横断歩道を渡ると
すぐ目の前に眼鏡橋は鎮座しているワケですが・・・
橋の欄干かな?に常夜灯というか、ランプが設置されていて遠くからでしたがそのフォルムを
目を凝らしてよぉ~く見るとガメラだ!!いやスッポンか?
がランプを背負ってましたよ

こういった遊び心にくすぐらるワケですが、それにはもちろん理由があるみたいで。。。
本明川の大亀説話や、高城神社跡が亀城と呼ばれており亀が城を守った?といった
謂われから、頂上には「亀塔(がめんとさん)」が奉られているそうです

なるほどね・・・ガメラではなく、スッポンでもなく、シンプルに亀さんなワケね(笑)

おぉおぉ・・・お久しぶりです!!永久不壊の石橋さん


何度見ても美しく、1839(天保10)年に架けられたそうですが、当時の石工職人の
技術の高さたるや・・・素人でもこれだけ感動するんだからプロならきっともっとカモ
来るのがちょっと早かったか・・・紅葉の頃に来れば良かったなぁ

木の橋ではないけれど、橋の真ん中を歩くたび頭に浮かぶのは。。。
「このはし、わたるべからず」
子供のころに憧れた?一休さんのトンチ話ですね


なので橋を渡る時は、無意識のうちに今でも真ん中を渡ってしまいます(笑)

文化財というのは、保存するにあたってイバラの道が広がっている事と想像します。
だけど、壊すのは一瞬の作業であっても、これを造った江戸時代の職人の技を
完成された実物を見ながら、現世の人たちがそれぞれに思いを馳せることが出来る
これこそが文化財に対する大きな意味合いを持っているのでは・・・
と、おてきちは常々思うワケですよ




これは無料で配布されている、観光案内の「諫早旅時間」というパンフですが
長崎市にある中島川に架かる、あの有名な眼鏡橋よりもデッカイ石橋で
最初見た時は、あまりのデカさに驚きましたね



この石橋が昨日の本明川に実際、架けられていた橋で、諫早大水害後にこの諫早公園内へと
移設されたそうです


日本最大級の二連アーチ橋で、石橋では日本で最初に国の重要文化財に指定されたという
石橋建築を目指す方々にとって、ここはある意味、聖地カモね!!
本明川の2つ目の飛び石を渡り、地上へ上がって横断歩道を渡ると
すぐ目の前に眼鏡橋は鎮座しているワケですが・・・
橋の欄干かな?に常夜灯というか、ランプが設置されていて遠くからでしたがそのフォルムを
目を凝らしてよぉ~く見るとガメラだ!!いやスッポンか?



こういった遊び心にくすぐらるワケですが、それにはもちろん理由があるみたいで。。。
本明川の大亀説話や、高城神社跡が亀城と呼ばれており亀が城を守った?といった
謂われから、頂上には「亀塔(がめんとさん)」が奉られているそうです


なるほどね・・・ガメラではなく、スッポンでもなく、シンプルに亀さんなワケね(笑)
おぉおぉ・・・お久しぶりです!!永久不壊の石橋さん



何度見ても美しく、1839(天保10)年に架けられたそうですが、当時の石工職人の
技術の高さたるや・・・素人でもこれだけ感動するんだからプロならきっともっとカモ

来るのがちょっと早かったか・・・紅葉の頃に来れば良かったなぁ

木の橋ではないけれど、橋の真ん中を歩くたび頭に浮かぶのは。。。
「このはし、わたるべからず」
子供のころに憧れた?一休さんのトンチ話ですね



なので橋を渡る時は、無意識のうちに今でも真ん中を渡ってしまいます(笑)
文化財というのは、保存するにあたってイバラの道が広がっている事と想像します。
だけど、壊すのは一瞬の作業であっても、これを造った江戸時代の職人の技を
完成された実物を見ながら、現世の人たちがそれぞれに思いを馳せることが出来る
これこそが文化財に対する大きな意味合いを持っているのでは・・・
と、おてきちは常々思うワケですよ




旧グラバー住宅から見る長崎港や稲佐山の眺めが、おてきちは結構気に入っていて
ちょうど良い目線の高さに景色が並んで見えるので、なんか気持ちが落ち着くというか
絵画のようにバランスのとれた構図は、返って自身を現実の世から切り離してくれる
ような感覚に陥れるものだから、精神的にも本当の意味で癒しが達成されると
おてきちは解釈しているのですけどね



何度来ても、ワクワク&ドキドキするこの新鮮な感覚は洋風建築に囲まれているから
なのか・・・それともグラバーの築いた歴史がそういう高揚感を訪れた人々に
与えているのか・・・この場所に立つと決まって冒険心が沸々と湧き上がって来るなぁ(笑)

水こそ見慣れた故郷の風景だけど。。。
港の風景がそこにプラスされるだけで、こんなにも違うモノだろうか。。。
やはり漁港
とはまたちょっと違った雰囲気がするよな。。。

いつもなら修学旅行生などで賑わっているグラバー園ですが・・・
ほぼほぼ貸し切り状態で、嬉しいやら、淋しいやらで複雑な心境ですね


そうだッ!!観光客が居ないのをイイことに、自由亭で久しぶりにお茶でもしようかな


昨日の写真にあった亀の池の目の前にある建物が、西洋料理発祥の店【自由亭】で
以前にもブログに書いたことがありますけど・・・
改めて簡単に再度、説明をしておきますと、明治11年に諏訪神社下(馬町)に
建てられた西洋料理店で、当時、この料理店には内外の貴賓や地元高官などの
社交場として利用されていたそうです


その後、店主であった草野丈吉の死後、自由亭は閉店され店は日本政府が購入し
太平洋戦争後には、検察庁官舎として使用されていたんだそうです

そういった歴史ある建造物は、まとめてこのグラバー園へ移築されたワケなんですねぇ~。

料金所から動く歩道に乗って最初に下りた右側に、この旧自由亭は建っているのですが
ちょうどこの建物の真下に、旧グラバー住宅があるといった地図になりますかね


おてきちも一度だけ、店内でダッチコーヒーだったかを飲んだ記憶がありますが。。。
落ち着いた雰囲気と店内からの眺望に、暫し時間を忘れることの出来るティールームですね


はぁ~あ、久しぶりにお茶したかったなぁ~・・・。
その当時の自由亭のメニューには、ビフテキやカレーライス、コーヒー、スポンジケーキ
などがあったらしく、「料金は一人前三朱、6人以上お断り、前日に予約すること」
という記録が残っているそうです



三朱とは今の
1万3千円くらいと書いてあるから。。。
何ともVIPなお値段ですこと
!!
しかも、電話もない時代に前日に予約するのは大変なことだったみたいですね


仕方がない。またの機会ということで、今日のところは潔く亀
の池の水でガマンするか(笑)

だけど開港した日本に、近代化の風を送り込んだ冒険商人グラバーの住居だった建物の
屋根の構造(華奢だったけど)が見られただけでも、ラッキーだったとするべきかな


今回の保存修理工事は、約50年ぶりだと書いてあったから。。。
少しはレアな体験が出来たってことですな(笑)

藤棚の木陰でひと休みしながら・・・長崎港を眺めていると心地の良い海風が吹いてきて
周囲に人が居ないせいか、この街にはおてきちだけが生存しているような気持ちになって
来て・・・おっと!!これってポツンとグラバー園やんかっ


とまぁ~、いきなりテンションマックスになるけれど・・・
海風が止むと、蒸し暑さにはやたらと弱いおてきちでやんす



ちょうど良い目線の高さに景色が並んで見えるので、なんか気持ちが落ち着くというか
絵画のようにバランスのとれた構図は、返って自身を現実の世から切り離してくれる
ような感覚に陥れるものだから、精神的にも本当の意味で癒しが達成されると
おてきちは解釈しているのですけどね



何度来ても、ワクワク&ドキドキするこの新鮮な感覚は洋風建築に囲まれているから
なのか・・・それともグラバーの築いた歴史がそういう高揚感を訪れた人々に
与えているのか・・・この場所に立つと決まって冒険心が沸々と湧き上がって来るなぁ(笑)
水こそ見慣れた故郷の風景だけど。。。
港の風景がそこにプラスされるだけで、こんなにも違うモノだろうか。。。
やはり漁港

いつもなら修学旅行生などで賑わっているグラバー園ですが・・・
ほぼほぼ貸し切り状態で、嬉しいやら、淋しいやらで複雑な心境ですね



そうだッ!!観光客が居ないのをイイことに、自由亭で久しぶりにお茶でもしようかな


昨日の写真にあった亀の池の目の前にある建物が、西洋料理発祥の店【自由亭】で
以前にもブログに書いたことがありますけど・・・
改めて簡単に再度、説明をしておきますと、明治11年に諏訪神社下(馬町)に
建てられた西洋料理店で、当時、この料理店には内外の貴賓や地元高官などの
社交場として利用されていたそうです


その後、店主であった草野丈吉の死後、自由亭は閉店され店は日本政府が購入し
太平洋戦争後には、検察庁官舎として使用されていたんだそうです


そういった歴史ある建造物は、まとめてこのグラバー園へ移築されたワケなんですねぇ~。
料金所から動く歩道に乗って最初に下りた右側に、この旧自由亭は建っているのですが
ちょうどこの建物の真下に、旧グラバー住宅があるといった地図になりますかね



おてきちも一度だけ、店内でダッチコーヒーだったかを飲んだ記憶がありますが。。。
落ち着いた雰囲気と店内からの眺望に、暫し時間を忘れることの出来るティールームですね


はぁ~あ、久しぶりにお茶したかったなぁ~・・・。
その当時の自由亭のメニューには、ビフテキやカレーライス、コーヒー、スポンジケーキ
などがあったらしく、「料金は一人前三朱、6人以上お断り、前日に予約すること」
という記録が残っているそうです



三朱とは今の

何ともVIPなお値段ですこと


しかも、電話もない時代に前日に予約するのは大変なことだったみたいですね



仕方がない。またの機会ということで、今日のところは潔く亀


だけど開港した日本に、近代化の風を送り込んだ冒険商人グラバーの住居だった建物の
屋根の構造(華奢だったけど)が見られただけでも、ラッキーだったとするべきかな



今回の保存修理工事は、約50年ぶりだと書いてあったから。。。
少しはレアな体験が出来たってことですな(笑)
藤棚の木陰でひと休みしながら・・・長崎港を眺めていると心地の良い海風が吹いてきて
周囲に人が居ないせいか、この街にはおてきちだけが生存しているような気持ちになって
来て・・・おっと!!これってポツンとグラバー園やんかっ



とまぁ~、いきなりテンションマックスになるけれど・・・
海風が止むと、蒸し暑さにはやたらと弱いおてきちでやんす



あまりの清々しい青空にそそのかされて?暑さをついつい忘れてしまって
気が付けば路面電車に揺られ、梅雨の晴れ間にグラバー園まで来てしまいましたよ


市民に限り期間限定ですが、無料で入園できるという特典に弱いおてきちです(笑)

グラバー園に来る道中の土産物店も、半数以上はシャッターが下りていて
中には閉店された店舗も何軒か見られ・・・観光客の来ない長崎の街は
この先、いったいどうなって行くのだろうか。。。

長崎市魚の町にある、創業から311年の老舗【江崎べっ甲店】も今月中に閉店を
されるとニュースで報道されていましたが。。。
そのべっ甲店で、江戸時代に魚の町で行われていた踏み絵の台帳
とやらが
新たに2冊発見されたそうです



記事によると、近年66冊(1746~1865年)が江崎家に所蔵されていることは
一部の研究者の間で知られていたそうですが、この2冊はそれより古い1745(延享2)年
および1816(文化13)年のモノで、計68冊となった。と書いてありました


歴史のある老舗べっ甲店が閉店されるのは、淋しい気も致しますが。。。
これも時代の流れだと受け入れて・・・べっ甲だけに亀の写真と共に話題に
取り上げてみた次第です




そして現在、旧グラバー住宅では耐震化を含む保存修理工事が行われており
建物内の見学は出来ませんが、このようにデッキが設置されていてその通路から
旧グラバー住宅の屋根などの修理現場が、見学できるようになっていました



現存する日本最古の木造洋風建築で、世界遺産にも登録されている貴重な
文化財建造物ですから、後世の人々へ引き継ぐためにも大切に残さなければ
ならないので・・・数十年に一度、こういった大規模な保存修理を行うそうです


ちょうど煙突が見えている位置になるので、下の写真の右端あたりになりますね

個人的な感想ですけど・・・日本建築に比べると全体的に華奢なイメージがしますなぁ~。
やはりその当時とすれば、これが基本的な木造洋風建築だったのカモ知れませんけどね。

年表によると1939(昭和14)年に、グラバーの嫡子・倉場富三郎が三菱に売却
された後、1957(昭和32)年に、三菱長崎造船所が創業100周年記念事業の
一環として長崎市に寄贈され1958(昭和33)年に一般公開が開始されたワケですか


その後1967(昭和42)年に、修理工事に伴う調査で建築年代が確定されて。。。
現存する日本最古の木造洋風建築である事が判明したんだそうです


歴史にはちゃんと道筋があるワケですな・・・。
だいたい保存修理の期間としては、約2年間ほど要するみたいですね



気が付けば路面電車に揺られ、梅雨の晴れ間にグラバー園まで来てしまいましたよ



市民に限り期間限定ですが、無料で入園できるという特典に弱いおてきちです(笑)
グラバー園に来る道中の土産物店も、半数以上はシャッターが下りていて
中には閉店された店舗も何軒か見られ・・・観光客の来ない長崎の街は
この先、いったいどうなって行くのだろうか。。。
長崎市魚の町にある、創業から311年の老舗【江崎べっ甲店】も今月中に閉店を
されるとニュースで報道されていましたが。。。
そのべっ甲店で、江戸時代に魚の町で行われていた踏み絵の台帳

新たに2冊発見されたそうです



記事によると、近年66冊(1746~1865年)が江崎家に所蔵されていることは
一部の研究者の間で知られていたそうですが、この2冊はそれより古い1745(延享2)年
および1816(文化13)年のモノで、計68冊となった。と書いてありました


歴史のある老舗べっ甲店が閉店されるのは、淋しい気も致しますが。。。
これも時代の流れだと受け入れて・・・べっ甲だけに亀の写真と共に話題に
取り上げてみた次第です




そして現在、旧グラバー住宅では耐震化を含む保存修理工事が行われており
建物内の見学は出来ませんが、このようにデッキが設置されていてその通路から
旧グラバー住宅の屋根などの修理現場が、見学できるようになっていました



現存する日本最古の木造洋風建築で、世界遺産にも登録されている貴重な
文化財建造物ですから、後世の人々へ引き継ぐためにも大切に残さなければ
ならないので・・・数十年に一度、こういった大規模な保存修理を行うそうです


ちょうど煙突が見えている位置になるので、下の写真の右端あたりになりますね


個人的な感想ですけど・・・日本建築に比べると全体的に華奢なイメージがしますなぁ~。
やはりその当時とすれば、これが基本的な木造洋風建築だったのカモ知れませんけどね。
年表によると1939(昭和14)年に、グラバーの嫡子・倉場富三郎が三菱に売却
された後、1957(昭和32)年に、三菱長崎造船所が創業100周年記念事業の
一環として長崎市に寄贈され1958(昭和33)年に一般公開が開始されたワケですか


その後1967(昭和42)年に、修理工事に伴う調査で建築年代が確定されて。。。
現存する日本最古の木造洋風建築である事が判明したんだそうです



歴史にはちゃんと道筋があるワケですな・・・。
だいたい保存修理の期間としては、約2年間ほど要するみたいですね



今日は明け方頃、台風並みの強風とともに、横殴りの大雨だったのですが。。。
その後は、降ったり止んだりを繰り返すような天気で湿度も高く蒸し暑いですね



一瞬、雨が止んだ隙を狙って、朝顔や瓢箪、その他、植え替えをした植物に
肥料を少しだけパラパラと蒔いたりしながら、雨を上手く利用しています



本日の写真は、鳴滝にあるシーボルト邸宅跡の風景ですが。。。
自宅から運動がてら、歩いて行ける距離にこの場所はあるので
何だか歴史を身近に感じることが出来て、おてきちは良い場所に住んでるよなぁ~

と毎度のことながら、感動の渦に巻かれているワケですわ(笑)
なぜシーボルト邸宅跡を目指したかと言うと、毎年の今頃ならば「紫陽花まつり」が
開催されている時期なのですが、さすがに今年はコロナの影響で自粛となり。。。
一応、公けには宣伝はせずに、例年より数は減らしてあったものの紫陽花が
シーボルト邸宅跡にも、このように飾られていましたよ



もしかしたら紫陽花が見られるカモ!!と思って、現地へ来てみて良かったです


ご近所のパフィオのおばさまからの情報によれば、眼鏡橋周辺にも毎年ほどではないけれど
紫陽花が飾ってあったわよ



また行く機会があれば、写真を撮って来たいと思います。
毎年、紫陽花まつりの会場となっている場所が、グラバー園、出島、眼鏡橋周辺
そしてこのシーボルト邸宅跡になるのですが、今年はコロナ休業が続いて
観光地ナガサキには、人がおらず、何となく淋しい雰囲気が漂う町の空気を
何とか市民たちで、少しずつでもイイから盛り上げて行って貰いたいという意味も込めて
ラッキーなことに、長崎市民に限り、こういった観光施設の入館料が9月30日まで
無料にしてくれるそうなんですよぉ~!!よっ!!太っ腹!!
なので、久しぶりにグラバー園へ紫陽花を見に行ってみようかな



紫陽花を撮っている瞬間だけは、さすがにこの蒸し暑さも忘れてしまいますね(笑)
桜の花びらが春風に舞って散る中を歩いていると、今年は特にあの有名な
辞世の句が浮かんで来ますなぁ~(笑)
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」

でも、おてきち的には良寛和尚の
「散る桜 残る桜も 散る桜」
こっちの方が自然体で、ごもっとも感が滲み出ていて好きですけどね



買い物の帰りに、いつもと違うルートを選んで中島川沿いに来てみると
ちょうど散り際の桜に出合えて、春から初夏に向かう心構え?を
青葉の眩しさに教えられるワケですなぁ~

~おてきち和尚より~

長崎市内では、去年、一昨年ぐらいから色んな地域で開発が始まっていて
多分、建物が老朽化して来たという年代にも入って来ているのでしょうけど
そういう場所に存在する史跡なども、場合によっては移築(移動)させられる事も
少なくはないワケですなぁ~



この中島川沿いの新大工周辺には、日本における写真業界の基礎を築いた人物
「上野彦馬」の邸宅があった場所として、看板が立てられています。
そこでは撮影局としての活動拠点でもあったようなので、龍馬なども訪れていますね


とにかく観光地なので、歩けば何かしらの看板に当たるのは珍しくもなく。。。
親切に色々と歴史などの説明がなされていますわ


この 【長崎聖堂】 というのは、江戸時代を通じて長崎における学問所の
跡地のようですね


当時の中国と日本とを結ぶ、通商や文化交流にも大変に重要な役割を果たしていた
教育の現場だったようですよ


最初は立山(現在の博物館がある町)にあったそうですが、その頃は「立山書院」と
呼ばれていてその後、この中島川沿いに移動してからは「中島聖堂」と呼ばれるように
なったそうですが・・・それがなぜ?「長崎聖堂」という名の碑が立っているのか



説明を読むと、それは立山から移転再建された折には「長崎聖堂」と称したそうですが。。。
やはり地名に習ってなのか、いつの間にやら「中島聖堂」と人は呼ぶようになったそうですな


ちなみに現在、当時の聖堂の遺構である大学門は、興福寺内で写真のように保存されています。
史跡の引っ越しも町の開発事業によっては、致し方ないことなのでしょうけどね


でも風格のある門なので・・・残っていただけでも良かったですな
辞世の句が浮かんで来ますなぁ~(笑)
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」
でも、おてきち的には良寛和尚の
「散る桜 残る桜も 散る桜」
こっちの方が自然体で、ごもっとも感が滲み出ていて好きですけどね



買い物の帰りに、いつもと違うルートを選んで中島川沿いに来てみると
ちょうど散り際の桜に出合えて、春から初夏に向かう心構え?を
青葉の眩しさに教えられるワケですなぁ~



長崎市内では、去年、一昨年ぐらいから色んな地域で開発が始まっていて
多分、建物が老朽化して来たという年代にも入って来ているのでしょうけど
そういう場所に存在する史跡なども、場合によっては移築(移動)させられる事も
少なくはないワケですなぁ~



この中島川沿いの新大工周辺には、日本における写真業界の基礎を築いた人物
「上野彦馬」の邸宅があった場所として、看板が立てられています。
そこでは撮影局としての活動拠点でもあったようなので、龍馬なども訪れていますね


とにかく観光地なので、歩けば何かしらの看板に当たるのは珍しくもなく。。。
親切に色々と歴史などの説明がなされていますわ



この 【長崎聖堂】 というのは、江戸時代を通じて長崎における学問所の
跡地のようですね


当時の中国と日本とを結ぶ、通商や文化交流にも大変に重要な役割を果たしていた
教育の現場だったようですよ



最初は立山(現在の博物館がある町)にあったそうですが、その頃は「立山書院」と
呼ばれていてその後、この中島川沿いに移動してからは「中島聖堂」と呼ばれるように
なったそうですが・・・それがなぜ?「長崎聖堂」という名の碑が立っているのか



説明を読むと、それは立山から移転再建された折には「長崎聖堂」と称したそうですが。。。
やはり地名に習ってなのか、いつの間にやら「中島聖堂」と人は呼ぶようになったそうですな



ちなみに現在、当時の聖堂の遺構である大学門は、興福寺内で写真のように保存されています。
史跡の引っ越しも町の開発事業によっては、致し方ないことなのでしょうけどね



でも風格のある門なので・・・残っていただけでも良かったですな
